みず

それは、奇跡の言葉だと思う。

みず。

みずというたった二文字の言葉。

この言葉がもし、もう少し長かったり、あるいわもう少しいいずらい言葉だったら。

これは、本当に大変なことだと思う。

それを感じたのは、婆ちゃんがこの世を去る、一日前のことだ。

自分の体が、生命の灯が今にも、消えゆく、最後まで。

婆ちゃんは、懸命にこの「水」という言葉を何度も何度も、全身全霊の力を振り絞り、声に出した。

その声は、かすれて、本当に僅かに聞こえる程度で、それでも、確かに求めるその声が、「みず」と言っているのがわかった。

もう「みず」とハッキリと言っている訳ではなく、こちらからすると、「みう」と言っているようにも聞こえた。

その声を聞いて、一生懸命看病する、俺のおばさん、婆ちゃんにとっての長女の娘は、ストローに水を用意し、スポイトのように、婆ちゃんの口の中に、1滴の水を流して込んであげる。

この1滴の水を飲むだけでも、もう婆ちゃんは、大変であり、それほどまでに婆ちゃんの体力や生命力は弱っていた。

それでも、伝わってくる、生きたい、生きていたいという思い。

俺にも、しっかり伝わってきた。

病室で、そんな婆ちゃんを俺は、ただ茫然と見守っていた。

いろんなことを思い出した。

僅か数日前。

心臓が苦しく、胸を抑えた婆ちゃんが、本当に苦しそうに、もがいて、なんとか、正気に戻って、俺がかけつけたとき、婆ちゃんは、大きな声でハッキリと「あ、ゆうき! 婆ちゃん生き返ったぞ!」と言っていたのを思い出した。

数日前は、あれだけ、はっきりと大きな声で話せていたのに。

やはり、切迫していたのだろう。

その時が。

さらに、いろんなことを思い出した。

俺が生意気言って、婆ちゃんと喧嘩したこと。

俺が婆ちゃんをからかい、婆ちゃん今朝、ウンチ出た?

と毎日のように聞いたこと。

俺がトイレでポケットに手を入れながら、ふざけて、ドアを開けたまま、棒立ちでおしっこをしていた時、婆ちゃんがそれをみて、「ちんちん掴んで、前にでて!」と怒鳴り声で、注意してきたこと。

俺を朝起こしにきた婆ちゃんが、「ゆうき手が勝手に動くんだ」と言いながら、片手が勝手に無意識に動きだしているところで、「ゆうき婆ちゃん終わりかもしれん」と言って、あとあとそれが糖尿性の舞踏病だったということがわかったこと。

いろんな、くだらない思い出や、いろんな過去を、僕は思いだした。

今。

そのことを婆ちゃんに話しても。

おそらく声は届くかもしれないが。

でも。

こちらに、何か答えることは出来ない。

婆ちゃんが今できることは、とにかく生きること。

必死に「みず」と声を出して、なんとかその水分を体に取り込むこと。

乾いている口のなか。

流れる血液。

最後の最後まで、なんとか動き続ける、胸の奥の心臓。

その鼓動が、送り出されていくその血液が、懸命に命を繋いでいく。

俺もそうだ。

今。

この瞬間に。

この鼓動が命を繋いでいる。

婆ちゃんとのお別れはもう近いだろう。

その事実に俺は、目をそむけたくなった。

本当は、ずっとこの病室にいるべきだろう。

でも。

もう自分の出来ることはなにもない。

少しでも、自分になにか出来れば、何か役に立てれば、そう思うが、結局この場にいても辛いだけ。

俺は、おばさんに、泣きそうな自分の顔を見せないように、婆ちゃんに背を向け、壁を見た。

長女のおばさんは言ってくる。

「婆ちゃんもね。ここまで頑張ったんだけどね」

その言葉が、より一層自分の思いを苦しくした。

きっと、これ以上考えたら。

何か込み上げてくるものがあるだろう。

それらが、こみ上げてくる前に、俺は、この場を去ろうと思った。

長女のおばさんは、「来てくれてありがとね。婆ちゃんも喜んでると思うよ。耳は聞こえてるからね。婆ちゃんも頑張ったんだけどね。帰るとき気をつけるんだよ」

そう言って、俺がエレベーターに乗るところまで、声をかけてくれた。

きっと、次婆ちゃんに会うとしたら、もう………

俺が、それを考えた瞬間、俺はエレベーターのなかで一人で泣いていた。

しくしくと泣いていた。

いつかはみんなこの日を迎えるのだろう。

いつかはみんなお別れの日を迎えるのだろう。

それを今まで、時折考えながら、そして、それを強く実感させ、自分に覚悟という受け入れの気持ちを持てた瞬間でもあったと思う。

俺は車を走らせ家に帰った。

家に帰ったとき。

長女のおばさんから、お父さんに連絡があったようだ。

俺に元気がなくて、心配している、そんな電話内容だったようだ。

俺は、その日。

死について考えた。

考えて、小説を書いた。

今になってみれば、その小説自体は、つまらなく、失敗した作品になってしまったが。

どうにか今の思いを何かに書いておきたい衝動にかられていた。

それは、しかし、上手に表現できなかったが。

結局、その日。

その日が終わろうとしていた。

俺は床につき、眠りにはいった。

当たり前のように、婆ちゃんの夢をみた。

婆ちゃんが、ぎりぎりのところで死にそうになっていても、なお、凄まじい生命力で長生きしていくことや。

もう死んでしまった婆ちゃんが、アンドロイドロボット婆ちゃんとして、家にきて生活するといったこと。

さまざまな夢をみた。

そして朝。

俺は、目を覚ました。

茶の間へ行った。

家の中がなんだか騒がしい。

お父さんお母さん、お姉ちゃんが家の掃除をし始めた。

お姉ちゃんが言った。

「婆ちゃんが帰ってくるかもしれない」

と。

そう言った。

これは、元気になって退院して帰ってくるという訳ではない。

でも、一瞬そういう前向きな解釈をした自分がいた。

都合のいいように自分は捉えてしまった。

ほんの一瞬だけ。

でも、すぐに。

やっぱりもうだめなのか。

と現実的な考えにもどった。

今日。

2019年11月4日。

きっと今日なんだろう。

そう俺も覚悟し。

仕事へと向かった。

仕事をしている最中も。

俺は、しいたけのおがの製造の仕事中も。

婆ちゃんの事を考えた。

きっと今頃。

もう今頃。

どの瞬間も。

もう止まっているんだろうって。

心臓が。

生命が。

俺は、そんなことをずっと考えていた。

そして。

昼の12時の1時間の休憩時間。

兄から電話があった。

この時間帯に、このタイミングで。

兄から普段俺の携帯に電話がかかってくることは、ほとんどない。

おそらく。

俺は電話にでた。

「ゆうき? 今しゃべってて大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「今朝、婆ちゃんが亡くなりました」

「そっか」

俺は、驚くほど冷静だった。

周りには、職場の人達。

俺自身も覚悟をしていた。

俺は、その後も、これからの仕事の休みをどうするか、兄に聞いて、職場の社長に電話を入れて、スケジュールを調整した。

そして、その日の仕事が終わり。

会社へと戻った。

めずらしく、兄が迎えにきた。

兄が家の状況や、これからの事を説明した。

そこでも、俺は冷静だった。

家の仏壇の前がごたついていて掃除などをし、親戚一同が騒がしく、あつまりぴりぴりしていたこと。

俺は、葬式用の服を買わないといけないということ。

それら、さまざまなことをやって、俺は家に帰った。

婆ちゃんが待つ家へ。

俺は、家の中に入った。

もう。

婆ちゃんは死んでいる。

婆ちゃんは。

俺は、その場にいた長女のおばさんに、

「ゆうき、ばあちゃんに挨拶してきな」

と言われ。

もう、帽子も取らずに、気づかず、そのまま婆ちゃんの元へ向かった。

婆ちゃんが眠る、仏壇の前へ。

顔にかかる白い布をとって。

婆ちゃんの顔をみた。

ぴくりとも婆ちゃんは動かない。

その表情も。

やはり。

お亡くなりになられたのだなと。

そこで、そう思った。

特別そこで、大きく泣くこともなく。

俺は、婆ちゃんの死を受け入れた。

線香に蝋燭の火をつけようとした。

そのとき、お父さんが、

「ゆうき帽子をとれ」

と言われた。

そこで俺は帽子をかぶっていたことに気づいた。

帽子をとり、線香に火をつける。

ここで、俺はもう何を思っていたのかはもう、あまり覚えていない。

ただ、目の前の現実を、これが本当に現実なんだなって。

夢ではないんだなって。

そう実感するだけだった。

その後は、急ピッチに事が進んでいった。

通夜、葬儀。

婆ちゃんを乗せた霊柩車が、火葬場へと向かった。

最後の別れが近づいていた。

火葬場の建物についた。

婆ちゃんが火葬場に入る前。

最後の別れに。

親戚一同は、婆ちゃんの近くに花を置いた。

声をあげ泣く親戚。

しくしくと泣く親戚。

何を考えているのか分からない親戚。

いろんな人の思いがそこにはあった。

俺は、お母さんを見た。

お母さんの顔を。

お母さんが微かに泣いていた。

お母さんが泣いているところを、俺は何十年ぶりに見たと思う。

ほとんど記憶としては、初めてと言っていい。

ごめんねと一言言って、お母さんは、婆ちゃんの眠る横に、一つの花を置いた。

婆ちゃんの顔を見れる最後の別れ。

そこでも、いろんなことを思い出した。

婆ちゃんに怒ったこと。

怒られたこと。

楽しかったこと。

面白かったこと。

からかっていた時のこと。

正直、俺が一番怒られたし、俺が一番迷惑をかけたと思う。

婆ちゃんに謝りたいという気持ちになる。

でも、そこでも婆ちゃんの声が聞こえてきそうだ。

「バカたれ! 一番、手をかけた孫に限って、可愛いもんじゃないか」

って。

そんな声が聞こえて来そうな気がして。

そんなことは婆ちゃんは言わない。

絶対に言わない。

でも、今になってふりかえった時、孫に対してひとしく愛情を捧げてくれた婆ちゃんが、少しでも、俺の事をそうして肯定してくれるなら。

これ以上にないくらい、俺は嬉しいんだろうなって。

そう都合よく、考えた。

それらを思いだし、もうこれで、最後なんだなと思った瞬間。

婆ちゃんが、火葬場に入る最後の瞬間。

俺の頭の中で、最後のからかいを俺はした。

「おばあちゃん、うんちでた?」

ってね。


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